Professor Smithから日本の読者へのご挨拶

本書は、日本においてアルツハイマー(Alzheimer’s Disease:AD)型認知症患者と
共に生きるすべての方々に捧げるものです。
AD型認知症という破壊的な疾患によって、人間らしさを奪われた患者の世話、
支援および治療を献身的に行うかたがた、つまり、医師、看護師、および介護施設の
介護人、家庭内の御家族、そして、 治療薬の開発者に本書を捧げたいと思います。

私は、記憶と老化を検討する英国オックスフォード大学のプロジェクト(Oxford Project to Investigate Memory and Ageing:OPTIMA)の創設者であり、認知症の
原因を研究しています。

2012年、世界では3600万人以上の人が認知症を患っており、そのうちの75%が
アルツハイマー病(AD)と診断されています。
日本では2010年時点で、およそ120万人の高齢者がADを患っており、
この罹患者数は、2025年には220万人まで増加すると見込まれています。

あらゆる認知症は、知的能力の低下、記憶障害、行動の変化、会話及び動作障害、
そして死につながります。

日本社会の急速な高齢化に伴い、認知症は、日本人にとっても極めて大きな課題で
あることは周知の事実となっています。

AD型認知症と戦う日常から派生する多くの課題に対処する方策のひとつとして、
本書を役立てて頂くことを希望します。

ADは、現行の治療法では、一部の症状しか緩和できません。

疾患の進行を遅らせる治療法を見出そうとするのであれば、AD研究の矛先を
「早期介入」に向けるべきである、との見解に立って、私はAD研究を推進
してきました。

脳内神経細胞が死滅し、脳が萎縮してしまってからでは遅すぎるのです。

ADに伴う神経細胞の死滅を遅らせ、脳の萎縮を抑制することができるかどうかは、
早期介入にかかっています。

その考えに立脚して、ADのPRODROMAL (前駆)期の一種と定義される軽度認知症 (Mild Cognitive Impairment : MCI)患者を対象として、臨床研究を進めてきました。

また、私は、脳萎縮を測定する方が、ある脳領域の機能障害の指標として望ましい
という考えに基づいて研究を続けています。
理由は、ある脳領域が萎縮することは、ADの古典的な組織病変を反映して
いるからです。
老人斑や神経原線維に沈着した不溶性蛋白質を測定するよりも、脳萎縮を
測定する方が、ある脳領域の機能障害の指標として望ましく、かつ容易に
測定できるからです。

そして、脳萎縮を引き起こすいくつかの要因のなかでも、特に、 血液中の神経毒である
ホモシステインに注目し、血漿中ホモシステイン値の上昇によって引き起こされる
脳萎縮を脳スキャンを用いて、定量的に観察することを主たる研究手法としています。

具体的には、2006年から、MCIを抱えた高齢者270例を対象に、
血漿中ホモシステイン値を低下させる働きをするビタミンB群を投与しての
臨床試験を開始しました。

当臨床試験は、2006年から2009年に亘って実施されましたが、その間、各被験者は、
正確に2年間、ビタミンB治療を施され、脳キャンを2回受けました。

付言すべきは、OPTIMAの同僚であり、Oxford大学医学部ナフィールドカレッジの神経心理学者Celeste de Jager博士が当臨床試験の一環として、被験者に対し
認知力テストを実施したことです。

血漿中ホモシステイン値が高い被験者に1日10ペンスという安価なビタミンB類を
投与することによって、結果として、脳萎縮が1年あたり平均30%軽減し、
認知低下率も軽減することが判明しました。

この結果は、ビタミンB群によるMCI病態の進行抑制効果
(a disease-modifying effect)を実証するものです。

そして、このことは、脳局所灰白質の脱落を検討した神経解剖学的分析によって
さらに裏付けられました。
MCI患者灰白質の脱落がビタミンB治療によって軽減した領域は、AD患者で萎縮が
みられる領域と同様であったからです。

我々は、ビタミンB治療を行うことにより、これらの脳領域の灰白質の脱落が
ほぼ認められなくなることを明らかにしました。

このように、血液中の神経毒であるホモシステインというアミノ酸値が高値であると、
ADを発症するリスクが3~4倍高くなるという事実が明らかになったのです。

つまり、ビタミンB群を服用して、血漿中ホモシステイン値の調節を早期に
開始すれば、ADの進行を遅らせることが可能であるということが世界で初めて
明白になりました。

既存のAD治療他剤は、臨床症状を緩和するに止まっています。
脳内に残存している神経細胞機能を高めてやろうとしている薬剤群です。
いわゆる「対症療法」です。

ところが、ビタミンB群は脳の萎縮を有意に抑制した。

つまり、脳内神経細胞の死滅を阻止したということは、認知障害という病態の進行を
遅らせたことを意味します。
換言すれば、「原因療法」と見做せると思います。

ビタミンB治療を継続すれば、半永久的にADの進行を遅らせることができるか
どうかについては、今後の臨床試験で検討する必要があることは理解しています。

ビタミンB群が、MCIで認められた認知記憶障害からADへの移行を阻止するか
どうかを証明するためには、更に大規模な臨床研究が必要です。

加えて、既存のAD治療他剤へビタミンB治療を上乗せすることによって、
患者の反応がさらに改善されるかどうかを検証することも必要と考えています。

この目的を完遂するために、前述の臨床試験を土台として、軽度認知障害患者1000例を対象とする、英国全土に亘る大規模追跡臨床試験を2012年9月から実施することを、
OPTIMAの次のステップとして計画しています。

日本においてAD型認知症患者と共に生きるすべての方々、特に、医師を始めとする
医療関係者、AD治療薬の研究開発に携わる企業のかたがた。

皆様が、日々直面する難題に立ち向かうための方策のひとつとして、本書を
役立てて頂ければ幸いです。

「現代の隠れたる疫病とも呼ばれるADに、我々は、打ち勝つことができるであろうか?」

この問いかけについて、私はいたってOPTIMISTICです。